救われた証
私は沖縄出身で、特に仏教徒というのでもなかったのですが、祖先代々受け継いだ仏壇があり、習慣として、仏壇を行事の度に拝んでいました。たいてい、沖縄ではどの家でも家の真ん中に作り付けの大きな仏壇がありました。
沖縄では、特に福音を知らずに育ちました。
上京して初めて福音を聞きました。
初めて教会へ行ったのは20歳位で友人に誘われたのがきっかけです。特に自分から積極的に行ったのではなく、教会はどういう所なんだろうという軽い気持ちで、4人位で行ったのを覚えています。
それから、2~3年程して、東京での一人暮らしの寂しさや自分の歩みに対する無力感や、空しさがあり、教会へ行くようになりました。その頃は教会へいくのに随分悩みました。教会へ行くといろんな悩みから解放されていくといったことを聞いたように思います。
しかし私は自分がちゃんとしてないので教会へ行けないというしがらみがあり、堂々巡り状態でした。結局埒があかないので、やっと
教会へ行こうという気持ちになりました。
今でもその友人に感謝しています。何とか教会へ行けたのを幸いに思います。
その教会の夏キャンプのあるメッセージが心に残りました。
エペソ2:8「あなた方は自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、その頃はそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」
このみ言葉を聞いた時、自分は根無し草の様だとはっきり語られました。みことばが私の内に働き、心を明るくして下さいました。長年自分が求めていたものが何なのかよくわからなかったのですが、最も大切なことを神様は教えてくださいました。
洗礼はずっと後になって受けたのですが、もともとは
このみことばが私の弱った渇いた心に触れたのです。
なぜなら、救いは恵みによるとエペソ2:8に書いてありますから。
又、「ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書いてあるように、ことばは神であり、ことばを通し、私が神に触れたので、私の目を開かせて下さったものと受け取れます。
私たちは神によって創造されました。神にあってこそ、生かされる存在です。
この世は神に不従順の霊の下にあり、神を信じない者は
神の怒りがその人にとどまるというみことばが理解できます。
神に従うのか、逆らうのか、どちらか一つで、霊の世界では
その中間はない様です。厳しいことばですが、神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心とあるように欠けだらけの者ですが、その都度、神様に示された時は従っていける様にしたいです。
真理を見た後、再びこの世を支配している悪霊
(サタン)に引き戻されることの無い様によくよく注意したいです。
まだ主を信じておられない方へ、
光がある内に光を信じることが出来るようにお祈りします。
主にあって感謝します。