『ゴミ置場』

 

 

 

,3年ほど前からのことです。私は集合住宅に住んでいるのですが、生ゴミの収集日にゴミが散乱するようになりました。原因はカラスですが、ひどい時だと収集場から10m離れたところの道路にまで被害がおよんでいました。その頃から日々神さまに「ゴミのことが大変なので何とかなりますように」とお祈りをするようになりました。するとしばらくしてカラスが来ない時期があって一時的には良くなったこともあったのですが、でも、また、カラスが来るようになりました。それから拍車をかけたかのように、状況はさらに悪化していきました。ゴミの日には決まって管理人さんが来て建物や周囲の掃除をしてくださいます。あまりじっと見たことはないのですが、恐らくそのたびにゴミの始末もしていたと思います。と言うのは、廊下やポスト付近の壁に「ゴミはネットの中に収めましょう。そうでないと不衛生です」という紙が貼られるようになったからです。そこに住んでからしばらくしてゴミ置場にネットが置かれるようになったので、皆その中に収めていたのですが、なにぶん若干目が大きいものだったのでカラスが簡単にゴミを取り出せてしまうので、そういう状態になってしまったのだと思います。また、ゴミが散乱するだけでなく、ゴミ置場の所にカラスが1,2羽いて、しかもそこから離れないので捨てるのにも若干苦労がありました。こちらは単にゴミを捨てるだけなのですが、カラスは何かされると思っているのか、時折攻撃的な行動に出そうになることもあり、困っていました。そのためか、中には道路を渡って向かいの建物のゴミ置場へわざわざ捨てに行く人までいました。

 

 

 

管理人さんも大変だろうし、公社(建物全体を管理している所)に事情を話して相談したほうが良いのかなぁ?という風に思い巡らすこともありました。一年、二年とお祈りしても、状況が変わらないのだから・・・と。それからしばらくして家族と夕食を食べながら、ゴミ置場のことで話をする機会がありました。するとあまり時を移さずに家族が私にこんなことを話してきました。「じつはこの間テレビを見ていたら、カラスの撃退法についての特集をやっていてね・・・そこのスタッフの人が実験までしていたんだけれど、その方法を使えば99%の確率で撃退できると思うんだけど・・・」と。詳しく話を聞くと、その方法は良さそうでした。ただし、1つ問題があって・・・費用も全くかからず、あるいは特別な器具類等は一切使用しないごく簡単な方法なのですが、万が一周囲に人がいた場合に「あの人、変な人なんじゃない?」と思われるようなやり方でした。話を持ち出した家族も「人がいなければねぇ。でも、どこに人がいるか分からないし。自分は気付いていなくても、建物の裏とかにも案外人がいたりして、頭のおかしな人がこの建物にもいるのねぇ、なんていう風に思われるかもね。そうなったら住みづらくなるよね」と言っていました。たしかにそうだよなぁ、それも一理あるなぁと思いました。しかもゴミ置場のすぐ近くにも住人の部屋があるので、仮に姿が見えないとしても、不審がられる可能性はありました。ゴミの散乱を何とかしたいし、カラスには来て欲しくないし、かと言っていくら撃退できる可能性があると言っても、今後も同じ建物に住んでいる人に変な目で見られるのも困るし・・・と思いながらも、神さまに「どうしたら良いでしょうか?」とお祈りしてみました。万が一にも神さまがその方法を許可してくださって、細心の注意を払って、あわや実行することができるのなら、という思いを内に秘めながらも祈った結果は、「ただ、神を頼りなさい」というものでした。要は、その方法を使うことでもなく、公社の職員に相談することでもなく、ひたすら神により頼む、ということでした。本当に解決してもらえるのかな?と半信半疑だったのですが、引き続きお祈りすることにしました。そんな中、家族から「あの方法やってみたの?」と聞かれて「ううん、まだ。」と答えると、「周りに気を付けてやってみたら?」と言われました。私もそうですが、家族も悪い方法ではないことは分かっていたので、しかもそれで二度とカラスが来ないでゴミが散乱しないのなら良いと思ってそんな風に話しかけてきたのかも知れませんが、でも、神さまがおすすめする方法ではないことが分かっていたので実行には移しませんでした。すると・・・それから一ヶ月経たないうちに・・・今から二ヶ月ほど前のことですが、いつものように生ゴミを出すためにゴミ置場に行ってみると、そこにはカラスもいなく、ゴミの中身が散乱しているものもなく、どのゴミ袋もネットの中にすべて収まっていました。何と!以前の目の大きめのネットから目の細かいネットに変わっていました。私と同じタイミングで、たまたま出くわした住人の人と「良かったですね、ゴミの散乱がおさまって。しかもカラスが来なくなって」と互いにうなずき合って喜びました。その方は、「カラスがいつも怖かった。」と微笑みながらひと言ポツリとおっしゃっていました。それから二ヶ月近くが経ちましたが、今のところその状態を保てています。

 

 

 

あの時・・・家族とカラスの撃退の話が再度出た時に、じつは私の内に「やっぱりこの方法を使ったほうがいいのかなぁ」なんていう思いが全くよぎらなかったわけではなかったのですが、そのことを何とか振り切って、神さまがおすすめしている方法、要は神さまに祈って頼っていくという風に心を定めることができて本当に良かったなぁと思います。一年、二年、三年と祈って、なかなか解決されないときに、人間的にはとても不安になってしまって神さまは忘れてしまっているのでは?なんていう思いにもなってしまうのですが、でも、たとえ時間がかかっているなぁと思うようなことであっても、神さまの御心に叶うことなら、主の時にベストな方法で解決へと導いてくださるのだということを改めて教えられたように思いました。そして神さまのわざは、どれもこれも完璧だなぁと思いました。

 

 

 

最近弟子の歩みの集会の中で旧約聖書に出てくるアサ王の歩みを通してクリスチャンとして歩むべき姿勢についての学びをしました。アサ王が神さまを拠り頼んだ時には敵に勝利をしたり、神さまのわざを見たりしたのですが、しかし、神さま以外のものを頼りにしたときに恥を受けてしまいました。同じアサ王なのですが、神さまに拠り頼んだか否か?によって、異なる結果をもたらしたのです。

 

 

 

たしかにこの世においては、様々な解決策があります。今回の一件にしても、そんなことで何も神さまに頼らなくたって、別の方法があるでしょう?という意見もあると思います。もちろん個々における人がどんな方法を用いるかどうかなんてことは自由ですし、色々な方法があることについても否定はしませんが、私自身は聖書に書かれているように事の大小を問わず、どんなことでも神さまに頼っていくのがベストだと思っています。たしかに神さまに頼っていく方法は一見良さそうには見えないかもしれません。なぜかと言うと、いつ、みわざをあらわしてくださるかは定かではないからです。もちろんお祈りしてすぐに、極端なことを言えば瞬時に応えていただけることもあります。でも、数週間、いえ、数ヶ月、いえいえ今回のように、年数を要するものも中にはあります。なので、若干の忍耐が必要となります。でも、そういったことを承知の上で神さまだけを頼り、祈り求めていくのなら、最終的にはどれもこれも、最善の結果をもたらすことができるのです。「今すぐ解決してもらわなければ意味がないし、困るでしょ?」なんて言われる方もおられるかもしれません。たしかに今回のことで「ずっとこんなことではどうしましょう?」なんて悩んだ時期も無くはなかったのですが、その時はその時で、その状況にふさわしい守りや助けを神さまは与えてくださいましたので、すぐに解決されないからと、そんな風にあまり心配しなくても大丈夫です。そして毎回そうなのですが・・・全面的に主に信頼したときに、神さまはみわざをあらわしてくださったのです。そうなんです、何か1つのことを取っても、神さまに頼るか?それとも自分の判断でいくのか?の選択が絶えずあるのですが、でも、神さまに頼るなら、主の時に必ず神さまが勝利を取ってくださり、栄光やみわざをあらわしてくださるのです。もちろん時間も手間もかかるというデメリットはたしかにありますが、しかし、それにまさる価値がありますので私個人としては、ぜひ、こちらをおすすめします。では、最後に主がアサ王に語ったみことばをお読みして証を終わりにしたいと思います。

 

 

 

16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

 

(旧約聖書〔新改訳〕:第二歴代誌16章9節)

 

 

 

※参考までに・・・「その心がご自分と全く一つになっている」のところはKJV(King James Version:シェークスピアの時代の訳なので、こちらのほうが信頼できると思われるのですが・・・)では、「その心が完全に主に向いている」とあります。「心が完全に主に向いている」とは具体的に、「10の心のうちの10が主に向いている」、すなわち「全面的に主に信頼する」ことです。もっと言うなら、「よそ見をしない」ことです。