「キリストにたとえの意味を聞く」

 

 

 

 

     キリストにたとえの意味を聞く

 

マタイ

13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 

これは、キリストが群衆にメッセージをする時、すべてたとえによって語られたことに関して、弟子達がキリストに何故、彼らにたとえでお話になったのですかと言いう質問に対するキリストの返答です。

 

 

この民の心が鈍くなっている、耳が遠くなっている、目がつぶっている。と言うのです。ですから、そんな耳で聞いても分からない、そんなつぶれた目で見るので見えない、そんな鈍くなっている心の状態では、メッセージを聞いてもその心が悟って立ち返る(悔い改める)ことは出来ないし、悔い改めて神に立ち返れば病んだ状態から癒され正常な状態になるのだが、無理だ。だから たとえで語るのだ!そのように語っている様です。

 

さらにこれをよく考えてみた場合、たとえで語られたら話と言いうのは普通 よく考えなければ分からない、或いはたとえの説明を本人から直に聞かなければ十分に理解出来ないことが多いのです。また、語った本人に直に聞かずに自分勝手に解釈する時、ポイントの捉え方次第で話の真意から大幅に外れた違った解釈をしてしまうおそれが大いにあります。

 

たとえを用いた語りは、さらにさらに理解を難しくする語りなのです。ですので、キリストはこの箇所であえてただでさえ理解出来ない群衆に、さらに解らせない為にたとえでメッセージをしたことが理解出来ます。

 

しかし、キリストに常に寄り添う弟子達が、キリストにこのたとえの意味は何ですかと聞いた時には、キリストはたとえの解釈をなさいました。群衆は常にキリストの傍らに居る存在ではありません。

どうもこの箇所から、キリストが本当に教えようとしている人の特徴の一部が理解出来ると思います。それは、群衆の歩みではなく、キリストの弟子達の様なキリストにどこまでも従う歩みをする者達に主イエスは御言葉の真理を理解させたいと望んでいるようです。

 

私達も、キリストの御言葉に従い、さらに御言葉を理解出来るようにキリストに祈り求めて行きたいと思います。