No.28 すべてに満ち足りよう!

 

 

 

◇◇あらゆる欲から解放されよう!◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕Ⅰテモテへの手紙6:6

 

6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

 

 

 

ひとつ質問させていただいてもよろしいでしょうか?あなたはすべてのことに満足していますか?良いことも、そうでないことも、すべてに感謝していますか??もし、“Yes!”と答えられるなら、あなたは幸いな人です。もう、これ以上、読む必要はないかもしれません。でも、“No!”と間髪入れずにおっしゃるなら、少し問題があります。「何を?!偉そうな!!」と言われるかもしれません。過去の著者もそういう者でしたし、今でも時折、そのように思うこともありますので、そんな風に言われる方のこともよく分かります。だからこそ、こんな風にメッセージを書いているのです。もちろん「そんなことは余計なお世話だ!」ということは、重々承知の上です。ですが、「せっかくだから読んであげてもいいかなぁ」なんて思う方は、ぜひ、このまま続けてお読みいただければ・・・と思います。

 

 

 

さて、著者のことで恐縮ではありますが、しかし、よろしければ一例として聞いてください。ある時、こんなことを思いました。「自分が一番幸いを感じる時ってなんだろう?逆に幸いを失う時はどんな時であろう?」と。特に後者について、祈りをしながら思い巡らしていました。するとですね、内側からこんな思いが沸いてきました。「ああ、何かとこだわることが良くないのでは?」と。要は、自分の思いから解放されていないときに幸いを失う、ということに気付いたのです。それが正当なことであれ、なんであれ、内側の思いや考えや感情に支配されているときに、「平安」、つまりイエスさまを失うことに気付いたのです。そしてそれは、「欲」だということが分かりました。「こうなればいいのになぁ」「あれがもう少し思うようになればなぁ」と。もちろん生きているかぎり、しかもありとあらゆる場面において、そういう思いや感情を全く持たない、ということはゼロではないのですが、しかし、どこかで、「これで良し!すべて感謝!!」なんていう風に割り切ることが、非常に大事なのでは?と思いました。

 

 

 

人づて聞いた話ですが・・・ある牧師さんの話です。ある時、突如として、その牧師さんは最愛の伴侶を失ったそうです。毎朝ご夫婦で公園を散歩するのが日課だったそうで、その日の朝もお二人で仲良く散歩をしたそうです。でも、その後、伴侶の方は天に召されたそうです。そのときに、その牧師さんは「最善最高!ハレルヤ!主に感謝!!」ということばを発したそうです。しかも信徒の人たちの前で。

 

 

 

人間的に考えるなら、この牧師さんが発したことばは、「とんでもない!」と思うかもしれません。もちろん著者も、いざ自分の家族や親族とかがそうなったとして、果たしてすぐにそんな風になれるのか?と言うと、まったく自信はありませんが・・・でも、この牧師さんの信仰姿勢から、色々と学びを受けることができました。たとえ悲しいことがあっても、辛いことがあっても・・・でも、そういうことも含めて、すべてに満足する、すべて満ち足りる、すべてに感謝する、ということを冒頭のみことばは、語っているように思います。そしてこのことはきっと、イエスさまが私たちに望んでいることなのでは?と思います。私たちが、喜ばしいことも、そうでないことも、しかしどんなことであれ、内側のあらゆる思いから解放されて、その時々における状況のありのままを受け止めて、神さまに感謝を捧げたり、満ち足りていくときに、イエスさまの平安で満ち満ちた歩みをしていけるのでは?と思います。

 

 

 

結論を言うと・・・不平や不満をはじめ、色々と要望を挙げ出したらキリが無い、でも、「これでOK!」としていくなら、いつも平安でいられるのでは?と思います。そう、そしてその究極を言ってしまうなら、「イエスさまがいれば、それで満足!」ということではないでしょうか?それ以外のものを求めていくときに、平安を失い、どんどん別のものにとらわれてしまって、もっとも大事なものを見失ってしまうのでは?と思います。たしかにこの世の中は、あらゆる「欲」に満ちてはいますが、聖書には「欲」に関して、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」ということが書かれています。なので目に見えるものも、そうでないものもひっくるめて、聖霊にあって「欲」から解放されていく中で、イエスさまが与えてくださる平安に絶えずとどまり続けていきたいと思います。