No.26 キリストの栄光を隠すものを除外する

 

 

 

◇◇あなたにとって、キリストの栄光を妨げるものは何ですか?◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕ガラテヤ人への手紙6:14

 

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 

 

 

著者も人さまのことをとやかく言える者ではありませんし、余計なお世話かもしれませんが、クリスチャンの歩みをしながらも、なんだかキリストの栄光があらわれてこないなぁ、なんていうことはないでしょうか?

 

 

 

さて、冒頭のみことばですが、KJV訳で見ると、若干異なる部分があります。まず、「キリストの十字架」のところは、「キリストの十字架の救い」になっています。また、「誇りとするものが決してあってはなりません」のところは「栄光を禁じる」と、そんなニュアンスがあるようです。著者は、英語はあまり得意ではないので、完璧な訳がどうかはわかりませんが、「キリストの十字架の救いの栄光を禁じない」とでも、訳したら良いでしょうか?もっと良い訳がありましたら、教えていただけたらと思います。

 

 

 

要するに、パウロが言いたいのは、ひとつは、クリスチャンはイエス・キリストの栄光をあらわす存在である、ということ。それと、もうひとつは、もし、キリストの十字架の救いの栄光を禁じるもの、つまり栄光を隠すようなものがあったら、それは除外していく、ということです。単刀直入に言うと、「いつもキリストの栄光をあらわしていきなさい!」ということです。もうすでに、「そんなこと分かっているし、実践もしているよ!」というあなたは、これ以上読む必要はありません。ぜひ、現状を保っていってください。しかし、「うーん、今ひとつだなぁ」と思う方、あるいは「もっと神さまの栄光をあらわせないものか?」と思われる方は、引き続きお読みいただけたらと思います。

 

 

 

では、早速ではありますが、あなたにひとつ質問させてください。イエスさまのこと以上に、何かにとらわれていたり、イエスさま以外のものばかりに心が向いたりものはないでしょうか?

 

 

 

たとえば地位や名誉、財産等に心が奪われていませんか?あるいは、趣味とかにお心あたりはありませんか?例を挙げるなら、高級車とは言わなくても、お気に入りのマイカーをお持ちの場合に、休日はイエスさまのことよりも、ドライブを満喫しているとか・・・女性の方でしたら、ファッションやショッピングを必要以上に楽しんでいるとか・・・はたまた「健康第一!」と言わんばかりに、ほとんど毎日のようにスポーツジムで熱心に体を鍛えるとか・・・

 

 

 

もしかすると、たとえば聖書を読んだり、お祈りをすることよりも、そのようなことが生活の中心になっていませんでしょうか?あっ、ここで勘違いしないでくださいね。これらすべてを否定しているわけではありませんし、全くやるな!と禁じているわけでもありません。でも、成すべきお祈りや聖書通読をはじめ、イエスさまのことをさしおいて、イエスさまのことが二の次、三の次になるようでしたら、吟味が必要なのでは?と思います。

 

 

 

また、イエスさまのことが一番になっていないときに、神さまは栄光をあらわしたくても、あらわせなくなるのです。イエスさまのことが一番になっていない、というのは、簡単に言えば、神さまの言うことに従わないことです。それで従わない人には、神さまが介入なさる余地がないので、栄光があらわれてこないのです。

 

 

 

「従わない」ということに関して・・・たとえば、ある時、あなたは「歯」が急に痛くなって歯科医院に行きました。そのときに医師が「口を開けてください」と言ったときに、あなたが口をずっと閉じたままの状態にしていたらどうなるでしょうか?いくらあなたが「治して欲しい」と願っても、治療ができませんよね。

 

 

 

「神さまの栄光をあらわす」ことも、それと一緒で・・・いつまでも口を開けないときに、歯の治療が停滞するように・・・私たちが神さまの声に従わないというときに、神さまはさらに進めたくても、あるいは先に行きたくても、そこでストップが、かかってしまうのです。つまり私たちがあまりにも意固地になったり、頑なになってしまうときに、神さまのほうで私たちに対して手出しができなくなってしまうのです。なので、本当に「キリストの栄光をあらわしていきたい!」と願うのでしたら、頑なになってしまうことのないようにくれぐれも気を付けていきたいと思います。すぐにできるかどうかは別として、すべてにおいて、「従う」という方向性で歩んでいきたいと思います。

 

 

 

第二歴代誌にこういうことばが書かれているのをご存知でしょうか?「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とあります。そして細かいようで恐縮なのですが、「その心がご自分と全く一つになっている」のところは、KJV訳だと「その心が神さまのほうに向いている人」とあります。「神さまのほうに向いている人」とは、「あちこち、よそ見をしない人」ということです。つまり神さまの言われることに、どんなことでも従っていく人、あるいは従っていこうと志している人のことです。いつも神さまだけのことを考えて、神さまがどうしたら栄光をあらわしてくださるんだろう?なんていう風に思い巡らしている人や、神さまの言われることにお従いしていこう!と志している人に、神さまはご自身の御力、つまり「栄光」をあらわしてくださるのです。裏返すと、「あれも大事、これも大事・・・」とか「自分の考えがあって、それを優先させたいから」なんて言っている人には、なかなかあらわしてくださらないのです。そう、「神さまが喜ばれることはなんでしょうか?よろしければ私を通して神さまの栄光をあらわしてください」「神さまの言われることに、どんなことでも従っていきたいのですが・・・でも、実際には、なかなかすぐに従えないこともあるかもしれませんが、神さま、どうか従えるように助けてください」なんていうことに心を向けてお祈りしている人に、神さまの栄光はあらわれてくるのです。なので口には出さないまでも、「自分がこうしたい」とか「お金持ちになりたい」とか「賢くなりたい」とか、神さまに従うことよりも、自分のことばかり追求している人には、残念ながら神さまの栄光は、いつになってもあらわされないのではないでしょうか?著者の考えが行き過ぎでしょうか?でも、みことばは、まさにそのことを語っていると思います。

 

 

 

パウロが「キリストの十字架の救いの栄光を禁じない」と言ったことば、これはキリストの十字架の救いを受けたのだから・・・私たちクリスチャンは、キリストの栄光をいつもあらわしていきましょう!と、そんなことを言われていると思います。そのために、どんな些細なことであっても、もし、キリストの栄光を隠すもの、足かせになるものに何らかお心当たりがありましたら、ぜひ、聖霊の力によって、それこそイエス・キリストの救いの贖い、つまり復活の力によって取り除いていただきましょう。また、「キリストの栄光」をあらわせないものは、単に目に見えるものだけでなく、内側にある思いや生まれつきの資質、あるいは欠点かもしれません。しかし、何であれ、キリストの栄光を見えなくさせるものは、徐々にでも取り除いていきましょう。

 

 

 

著者のことで恐縮ではありますが、著者も信仰の途上の立場であるがゆえに、キリストの栄光を隠してしまう、なんていうものはまだまだあると思います。ですが、「これがあるゆえに・・・このために栄光があらわされない」なんていう風に神さまから示しや語りかけを受けたときには、聖霊の力によって変えていただいたり、取り除いていただけるように、すかさず祈り求めることをスタンスにしています。すると神さまがほどなくして、そのことに関して力を与えてくださり、変えられるべきところは変えていただいたり、除くべきところは取り除いていただいたりして、以前にも増してキリストの栄光をあらわしていただいています。そしてそれは、とても感謝なことですし、神さまの前に光栄なことだなぁと、思っています。

 

 

 

ちなみに、「何が原因なのか分からないんだけど・・・」という方は、ぜひ、お祈りして神さまに聞いてみてください。神さまは真実で誠実なお方なので、真に求める人には必ず教えてくださいますので、信じて祈り求めてみてください。そして示されたら、すぐに神さまの言われることに従って、キリストの栄光をあらわしていきましょう!!