No.23 教会選びのポイント(1)

 

◇◇カトリックとプロテスタント、どっちがいいの?◇◇

 

すでに教会に所属されている方には、ほとんど関係がないことかもしれませんが、しかし、世の終わりには、教会が変質するということが、聖書で言われている現実ですので、よろしければ一読くださると良いかと思います。

 

今回の文章は、「今、教会を探している」「教会に行くなら、どんな教会がいいのかな?」という方を前提に話したいと思います。

 

その前に、著者が教会に行ったきっかけは、こんな感じでした。著者の友人(未信者)の知り合いが教会にいるということで、クリスマス会に誘われたということで、一緒に行くことになりました。その教会は「プロテスタント」でした。その頃は、クリスチャンになる予定はまったくなかったのですが、「ああ、教会ってこういう所なんだぁ」ということを何となく理解しました。そこの教会に所属することはありませんでしたが、その後著者が洗礼を受けた教会も「プロテスタント」でした。さらにそれから地理的な事情で教会を変えましたが、その教会も「プロテスタント」でした。そして今現在通っている教会も「プロテスタント」です。

 

さてさて、自分がずっと「プロテスタントの教会」に行っているからと言って、人間的な思いや感情で「プロテスタント」をひいきするつもりはさらさらありませんが、しかし、「教会選び」に関して、聖書の視点で話したいと思います。

 

単刀直入に言いますが、「カトリック教会」に関しては、残念ながら神さまの御心はないでしょう。「突然何を言い出すのか?!」「何の根拠があるのか?!」と、怒り出す人もいるかもしれませんが、では、聖書からそのことについて話したいと思いますので、よろしければ耳を傾けていただければ、と思います。

 

〔聖書箇所〕Ⅰ列王記13:1-34

13:1 ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。

13:2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」

13:3 その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」

13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。

13:5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。

13:6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。

13:7 王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」

13:8 すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。

13:9 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。

13:10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。

13:11 ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。

13:12 すると父は、「その人はどの道を行ったか。」と彼らに尋ねた。息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた。

13:13 父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、

13:14 神の人のあとを追って行った。その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。

13:15 彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。

13:16 するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。

13:17 というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」

13:18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。

13:19 そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。

13:20 彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、

13:21 彼はユダから来た神の人に叫んで言った。「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、

13:22 主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」

13:23 彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。

13:24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。

13:25 そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

13:26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」

13:27 そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。

13:28 彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。

13:29 そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。

13:30 彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。

13:31 彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。

13:32 あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」

13:33 このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。

13:34 このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。

 

若干長いのですが、少しずつ見てみましょう。

 

13:1 ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。

13:2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」

13:3 その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」

13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。

13:5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。

13:6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。

 

いくつかの「たとえ」が使われているので、少し説明をしながら、見ていきたいと思います。

 

1節「ひとりの神の人」とは、神さまのことばを伝える働きをしている人のことです。今で言えば、「牧師」「伝道者」「教師」の立場の人です。「ユダ」ということばですが、「南のユダ」のことを言っていて、これは新約時代の「プロテスタント」のことを言われています。ちなみに「ベテル」とは、「神の家」すなわち「教会」のことを指します。ですから「ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た」とは、「プロテスタントの働き人、牧師、あるいは伝道師、もしくは教師が、神さまによって、教会に遣わされた」ということです。そして、どんな教会に遣わされたのか?と言うと、「ヤロブアム」がいる教会に、です。「ヤロブアム」は、北のイスラエルの王、今で言えば「カトリック」の祭司、つまり「カトリック」の神父の立場の人です。なので、ここで言われているのは、プロテスタントの働き人が、カトリックの教会に行った、ということなのです。その時に神の人、つまりプロテスタントの働き人は、カトリックの教会に対して「人の骨がおまえの上で焼かれる」「祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る」と不吉な預言をしました。それを聞いたヤロブアム王は手を伸ばして「彼を捕えよ」と言ったのですが、伸ばした手はしなび、戻すことができなくなりました。そして5節に書かれているように、神の人が預言したとおりに、祭壇は裂けて、灰はこぼれたのです。ちなみに「祭壇」とは、「カトリック教会の礼拝(ミサ)」のことです。ですからここで言わんとしていることは、「カトリック教会の礼拝(ミサ)」は、本来聖書で語っている礼拝の方法とは違うよ、だからたとえ物理的に建物や礼拝堂があっても、神の前の実質は「壊れているよ」ということです。ですからこの時点においても、「カトリック教会」のことを聖書ではお勧めしていないことが分かると思います。

 

次を見ます。

 

13:7 王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」

13:8 すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。

13:9 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。

13:10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。

 

さきほど、北のイスラエルの王(祭司)ヤロブアムの手がしなび、戻すことができなかったのですが、神の人、すなわちプロテスタントの働き人が神さまに祈ったことによって、王の手は元に戻り、前と同じようになりました。

 

それで王(ヤロブアム)は、7節「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください」と神の人に言いました。

 

けれども神の人はこのように言いました。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです」と。そして、10節に書かれているように、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰って行きました。

 

この態度は神の前に喜ばれることです。なぜか?について、以下、みことばを見ながら、説明したいと思います。

 

さて、ここで「パン」と「水」ということばが出てきます。「パン」は「みことば」や「教理」のたとえです。「水」は「霊的な事柄」を指します。そして「パンを食べず、水も飲まない」とは、「カトリックの教理を受けないし、カトリックの霊も受けない」ということです。しかも、それは「主の命令によって」と書かれているように、神さまからの命令なのです。

 

さて、なぜカトリックの教理や霊はNGなのでしょう?突然頭ごなしに「ダメ!」と言われても、納得できない方もいると思いますので、例を挙げたいと思います。

 

教理に関しては・・・カトリックのローマ法皇は「地獄は無い」とか「進化論は正しい」なんていうふうなことをいっていると、耳にしているのですが・・・しかしこれは「嘘」です。聖書にはハッキリと「地獄(火の池)」について書いてあります。また、「進化論」に関しては、「初めに、神が天と地を創造した」とか「神が天地を創造された」のみことばに相反するものであります。

 

はたまた、「聖書に誤りがある。聖書よりもローマ法皇が言うことが正しい」ということもいっているそうですが・・・けれどもこれに関しても、「この天地(教会のたとえ)は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」のことばに反する教えであります。

 

ですので、もし、このような教理をまともに信じるなら、ハッキリ言いますが、いつになっても信仰の土台が建て上げられることはないでしょうし、はたまた、永遠の命を得るのも、きびしいのでは?とおもわれます。

 

次に「霊」に関してですが・・・カトリック教会で、「血を流すマリヤの像」がある、ということを耳にしたことはありませんか?それからイエス・キリストに祈るのではなく、「マリヤ」とか「マザー・テレサ」あるいは「聖人」に祈るなんていうことがいわれています。

 

つまりカトリックは、キリスト以外の霊を受けているのです。そう、そしてそのようなことをくりかえしていくうちに、だんだんとおかしな霊にやられていくのでは?とおもいます。イエス・キリストの霊、つまり「聖霊」にこそ、「永遠の命」があるのですが、そうではない霊を受け続けていくときに、クリスチャンの入るべきところ、「天の御国(天国)」に入ることは、おそらく無いとおもいます。ゆえに、「カトリック教会からは、離れなさい!」ということを言っているのでは?と思います。それこそ「主の命令によって」ということばのとおり、このことは神さまの命令なので、聞き従っていくことをおすすめいたします。

 

そして、カトリックの教理や霊を受け続けていく結末についても書かれているので、そのことも見ていきたいと思います。

 

13:11 ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。

13:12 すると父は、「その人はどの道を行ったか。」と彼らに尋ねた。息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた。

13:13 父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、

13:14 神の人のあとを追って行った。その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。

13:15 彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。

13:16 するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。

13:17 というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」

13:18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。

13:19 そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。

13:20 彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、

13:21 彼はユダから来た神の人に叫んで言った。「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、

13:22 主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」

13:23 彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。

13:24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。

 

さて、神の人はカトリックのパンも水も飲まずに、ほかの道を帰って、そこまではよかったのですが・・・しかし、ベテルに住んでいたひとりの預言者にだまされて、カトリックのパンを食べ、水を飲んでしまったのです。あれほどまでに拒否をし、しかも神さまが禁じていたにもかかわらず、です。そしてその結果はどうなったか?と言うと、24節に書かれているように、「獅子(サタン)」に殺されたのです。カトリックの教理を受け、霊を受けた結果、教理的にも霊的にもおかしくなって、サタンに殺された、つまり「霊が死んでしまった」のです。しかも「パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない」とも言われたのです。「墓」は、たとえの意味合いとして、「後の世」のことを指すと思われます。そして「先祖たちの墓」とは、私たちクリスチャンの信仰の先祖であるアブラハムやイサクやヤコブが入った墓、すなわち「天の御国」を指します。

 

そう、カトリックのパン、つまり教理を受け、水、すなわち霊を受けるときに、「先祖の墓には、はいらない」と言われているように、「天の御国」を受け継ぐことができなくなるのです。これは深刻な問題です。しかも34節では、「このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。」とあります。「地の面から根絶やし」と書かれているように、ヤロブアムの家、つまりカトリック教会は、神さまから「根こそぎ」にされると言われているのです。「根絶やし」ということばは「滅び」と同じような意味合いなので、どう考えても、「天の御国」はきびしいですよね?ここでも、カトリックが「天の御国」を受け継がないということが強調されているのです。

 

以上、結論を言ってしまうなら、カトリック教会とプロテスタント教会と、どちらが良いのか?と言うと、「プロテスタント教会」に御心があります。はじめに話したように、「カトリック教会」は避けたほうがよいでしょう。たしかにカトリック教会のほうが、人数も多く、立派な建物も多いかもしれませんが、でも、聖書ではおすすめしていませんので、そのことは正しくとらえておきたいと思います。

 

繰り返しますが、もし、そこで教えを受け、霊を受けるなら、物理的に肉体は生きていても、霊的には死んでしまいますので・・・そうすると、いくらクリスチャンと言っても、「天の御国」に入れなくなりますので・・・このことは、真剣に向き合って神さまの言われることに正しく従っていきたいと思います。

 

本日は「教会選びのポイント」に関して、カトリックがどのような教会で、その結末はどんな風になってしまうのか?という点から話をさせていただきましたが、ご理解いただけましたでしょうか?こういう面に関して、人間的には信じがたい!あるいは納得がいかない!なんて思う方もおられるかもしれませんが、聖書が語っている視点に立って、ご理解いただけたらと思います。

 

ただ、それとは別に・・・カトリックに関してはもう一面あって、30節で「ああ、わが兄弟」と書かれているように、私たちプロテスタントの親類にあたる人たちでありますので・・・また、神さま(イエスさま)は、カトリックのクリスチャンの中で、いずれ正しく神さま(イエスさま)を信じて受け入れていく人たちを起こされるというご計画をお持ちですので・・・しかもそのことは神さま(イエスさま)の時に、必ず成就(実現)しますので、たとえ私たちのほうからはカトリック教会には行くべきではないにしても、その時に彼ら(カトリック教会に属しているクリスチャンたち)が正しく神さま(イエスさま)に立ち返ることができるように、お祈りしていきたいと思います。